教科書で『舞姫』を読んでから鷗外には苦手意識があって、なかなか手を出す気になりませんでした。伯母から『類』(※1)を勧められ、聞いてみると鴎外の末子、森類の生涯を描いた小説だと。その「不肖の息子」「鷗外の子であることの不幸」という帯。
鷗外への苦手意識は、医者でもあり文豪でもあるエリート、どことなく冷たく堅いイメージで近寄りがたく、逆に誰もが知る文豪の息子がこんな風に劣等生だったなら、さぞ大変だっただろうな、と覗いてみたくなりました。
始まりは鷗外が晩年住んでいた観潮楼の庭の描写から。たくさんの日本の草花の名前に、辞書を何度もひいて。意外だったのは、鷗外が亡くなった後、この庭は荒れ果ててしまうのです。あれ?冷たいエリートと思っていた鷗外は、意外にも家族の誰よりも花畑の手入れをする人だったらしい。
また、息子に対してもとても細やかで優しい。応接間に客を待たせている時でも、気にせず我が子の顔をゆったりと眺める。父として、子供たちから愛されている。
鷗外の死後、勉強のできない類は結局画家を目指し、姉の杏奴と巴里へ。日本では肩身が狭かった類の巴里での解放感。
「人間は楽しんでもいいんだってことを、僕は巴里で生まれて初めて発見しました。日本では苦しいほど働いて働いて、(中略)遊ぶことにどこか引け目があって、だいいち他人様に悟られぬように用心しないと陰口を叩かれる。でもこちらでは誰も他人のことを気にしません。」
ずっとこの幸せな巴里生活の章を読んでいたいと思いました。
物語終盤の印象的な言葉。
「どうして何もしないで、ただ風に吹かれて生きていてはいけないのだろう。どうして誰も彼もが、何かを為さねばならないのだろう。
僕の、本当の夢。
それは何も望まず、何も達しようとしないことだ。質素にひっそりと暮らすことだ。」
『類』を読み終わって、後日、千駄木近くに用事があったので、森鷗外記念館へ。観潮楼の庭の描写が印象的で、展示されていたら実際はどんなだったのか、団子坂ってどんな坂なんだろう、と実際に確認してみたくなったのでした。
展示には
「僕はげんげを摘みはじめた。暫く摘んでいるうちに、前の日に近所の子が、男の癖に花なんぞを摘んで、可笑しいと云ったことを思い出して、急に身の周囲を見回して花を棄てた。(森鷗外『ヰタ・セクスアリス』より)」と。
花畑の手入れを怠らなかった鷗外はやはり花好きだった、男性的ではないところがあったのかしら。
記念館のお客さんは最後まで私ひとり。動画鑑賞スペースでは、映像内で著名人が鷗外について語っていて、その中で、「空車」という作品について触れていました。
鷗外はこの作品で、自分のことを空っぽの大きな車だと書いていた。
本当は医学の研究をしたかったが、語学ができるから医学の翻訳をやれと言われ、やりたかった研究をすることができなかった。(※2)
自分の小説を書きたくても、またもや語学ができるから、欧州の作品を翻訳をしてくれと頼まれて小説を書く時間を与えてもらえなかった。
有名にはなったけど、自分の中身は空っぽにすぎない、と。
鷗外は満たされない想いのようなものを抱いていた人だ、と。意外でした。
そして、動画の最後の出演者は平野啓一郎さん!
『舞姫』で主人公は薄情だと思われたりするけれど、あの作品の中で主人公が自ら選択できたことはほとんどない。優秀な人だったから、周りがほっておかず帰国せざるをなかった。
鷗外は他の作品でも思うように生きることができなかった人ばかりを描いている。立身出世の時代であったが、実際にはそんなに努力したからといって思うように生きられるものでもない、と言いたかったのではないか。
そのために最後は「諦念」という境地に至っている。夏目漱石のように英雄的な人がでてくるわけではないので、比べて鷗外の人気は低いが、3・11の後に読むとなんとも言えない(救われるような)気持ちになる
というようなこと(違っていたらごめんなさい。)を解説されていました。
サンデルさんと平野さんの能力主義についての対談が思い浮かびました。
こういう考え方の人好きだな、鷗外近寄ってみたい、と思えるようになってきたところで2冊入手して帰途に。
※1 朝井まかて『類』集英社 2020
※2 (医学の研究という観点で)鷗外は、脚気の原因を「菌」によるものだと誤解していて、それによって日清戦争で陸軍は脚気により多くの死者がでたそうです。海軍は栄養による、という正しい見立てだったとのこと。
DIAMOND ONLINE 「日清、日露戦争で3万人以上が「脚気」で死亡…文豪・森鴎外の「大失敗」とは?」2021.9.15 2:50
2022/03/07 00:32