森の茂みの向こうから寂聴さんの曇りない笑い声が聞こえる。
そこから少し離れてポツンと開けた場所の切り株に私は座っていた。
まだ。

@コルク ささき さんと、すでに読み終えた森の住人たちが「感情移入しすぎぬように」と言うのであった。そうしようと努めたが(作品との距離が上手くとれず@るみ子 さん)とても辛い読書だった。
一章読んでは少し休み、日を空けて次の章に進んだ。そうやって全章読み終えた。10月も終わりになっていた。

    @れいんぼう さん同様、再読するのは辛くて尻込みしたが、@ネモフィラさんの小説対照の年表が大きな助けともなって、『新・韓国現代史』は何としても読まねば、と強く感じて読んだ。一回読んだだけでは理解が足らず繰り返して読んだ。

    韓国と日本の歪な関係が歴史を遡って根が深いものであること、明治維新(近代国家の誕生)を契機にその歪みがさらに複雑化したこと、日韓の捻れた関係の形成には米国も深く関わっていること、などたくさんのことを知った。
さらに、光州が昔から差別・偏見の対象であった湖南人の暮らす地域だということも初めて知った。
虐殺やテロを引き起こす原因の根底には国が国を見下す・人が人を見下すという精神が根底にあることを改めて感じもした。
今現在も少なくない数の日本人が韓国を、朝鮮の人を完全に見下している。
そして日韓の歴史認識の溝は深いままだ。

『新・韓国現代史』に読み疲れるとピアノを弾いた。ピアノに疲れるとまた『新・韓国現代史』に戻り、それを何度も繰り返して11月が過ぎた。

11月の終わりにハン・ガンさんをゲストにお迎えした回のアーカイブを視聴した時は、その優しい笑顔、落ち着いた声と話しぶりに心を洗われるような気がしたのを覚えている。ああこの声でならもう一度『少年が来る』を聴ける(読める)!と私は感じ始めていた。

    読む者には計りしれないほどの悲しみと苦しみに対峙しながら筆を進めいったであろう(@-- さん)ハン・ガンさんの所にはトンホが、チョンデが、チョンミが、「人の死」ではない死に方をした沢山の人がやってきたに違いない。
そのハン・ガンさんを通路にして、この小説を読んだ全ての人に彼らは「やって来る」。

〈読むとは絶句の息遣いに耳を澄ますことである〉
とは『不滅の哲学    池田晶子』(@若松英輔)で紹介されている言葉だ。
〈祈りの「言葉」が顕現する時、個はひとつの通路になる〉と、若松は池田晶子の哲学的発語を評した。
私はハン・ガンさんの刻んだ絶句の息遣いを確かに聴いたと思う。
確かに聴いて私もまた絶句した。

絶句の11月が終わり12月になると間もなく青森から4歳と2歳の孫(ボーイズ)が年末年始を過ごしにわが家にやって来て、私は多忙を極めた。
早朝から起こされ、朝ご飯を作り食べさせ、北風の中をお散歩した。お昼ご飯を作って食べさせ、絵本を読み、2歳のオムツを変え、お絵描きをし、新幹線の線路を繋げる手助けをしているうちに夜ご飯になった。寝る前にも絵本を読んだ。
飛ぶように毎日が過ぎて、ピアノを弾く時間も本を読む時間も無かった。

お正月が終わり(青森は雪国なので冬休みが長く)8日にようやく彼らは帰っていった。
私はヘトヘトだったけれど、不思議なことにものすごく元気でもある自分を発見した。
4歳と2歳の「食べる」と「遊ぶ」はすごかった。彼らの「生きる」が溢れていた。溢れてそこらじゅう熱量だらけにして帰ったに違いない。

何故だかもう一度『少年が来る』を読める気がしてきた。トンホやチョンデに何か話しかけたかった。

どんなふうに?
何を?

ハン・ガンさんの紡いだ言葉をそのまま声に出してみようと思い立った。

第一章    幼い鳥
トンホの行動や気持ち、尚武館辺りの雨粒を含んだ重たい空気を、ありありと感じられる体験だった。

第二章    黒い吐息
心を込めてゆっくりと朗読してみた。
黙読の時よりも、もっと自分の近くにチョンデの魂がやって来た。
読みながら、チョンデの魂がゆらゆらとそばに寄りそってきて私に語りかけてくるようだった。

沢山の亡骸が物のように打ち捨てられ積まれて「怪物の死骸みたいに一塊になった」チョンデたちの体、そこから発する凄まじい死臭、彷徨う魂。

こんな酷い場面であるのに章全体がまるで一編の詩のようだった。
これを「美しい」といってよいのだろうか。
ハン・ガンさんはこの場面を(他の章も、もちろんだが)絶句の息遣いで書き続け、言葉にならないコトバをチョンデの魂の叫びにした。
これが文学というものなのか。

第六章    花が咲いている方に
この章は、何度も何度もこみ上げてくるものがあり、朗読するのは難しかったのだが
この章もまた、美しい詩のようだった。

もとより私は人生の折に触れて詩を口ずさむような人間ではないので、美しい詩が何たるかを語る口を持たないが、『少年が来る』は散文の形をとった詩ではあるまいか、とここにきてようやく気づいた。
詩は朗読されることを前提に書かれている。だとしたら『少年が来る』も声に出して読んでみるのも自然なことだ。
声に出して読むことで死者たちの声がよりハッキリと聞こえてくる。

『少年が来る』のルームで交わされたコメントを読んでみる。

    透き通るような、どこか淡々とした語り口に、深い悲しみがこめられてい胸が詰まりました(@megumi さん)

ルポルタージュではなく、小説としてこの書があることに感銘を受けています(@シミズさん)

人間の根源的な〈暴力性〉と向き合うことすら避けてきた自覚があります(@みきさん)

前半のリリカルな表現に魅了されました(@タカ さん)

何よりも大切なのは、使者の声を聞くこと。残された者の声を聞くこと(@サトル
さん)

鳥と魂と息の考察(@-- さん、@ドリー
さん、@あづささん、@サトル さん、@山田 恭永 さん)

私が3ヶ月かかってようやく辿り着き、言葉にできた以上のものがそこに散りばめられている。

⭐︎ブログトップの画像はアルヴォ・ペルトのスンマというCDより。

コロナ以前に行ったコンサートで感銘を受けて買った曲がこれです。エストニア国立交響楽団・ヤルヴィ指揮『スンマ』は、素朴で単純で祈りを感じるほど静謐で、でもその中に青白く燃える光を持っているような曲です。
中世の宗教曲のようにも聴こえますが、その音の流れは、それこそ「世界が嘆息をついている」ような雰囲気を持っていて、『少年が来る』初読の時に私の頭の中に流れた曲でした。
でも音読した後、脳内に流す曲は、@あづささんご紹介の「そっと静かに」@金素月
なのです♬