『アンナ・カレーニナ』、望月哲男さんのしなやかな翻訳もさることながら、トルストイの小説の書き方が巧みなのか、思っていたよりもスムーズに読み進めることができました。しかし第3巻後半以降は事態の展開が気になり、ストーリーを追う読み方になってしまい少々反省です。
読後の余韻として残る、各登場人物に対する愛着の度合いは予想以上に大きく、この深遠な世界から離れ難い気持ちが続いており、よって自然に少しずつ再読を始め、関連書籍で理解を深めつつ、いい機会なので同時代のイギリスやフランスの小説を併読しています。

さて心の残る名シーン、数多くありますがここでは主人公のアンナに絞って、3つの点について取り上げてみます。

1.    汽車内での読書

アンナは二言三言女性たちに返事をしていたが、話を続けても面白そうではなかったので、アンヌシカに読書灯を取ってこさせて、座席の肘置きにすえつけると、バッグから頁切りのペーパーナイフとイギリスの小説を取り出した。
・・・
アンナは読みかつ理解していたが、どうも読書というものが、つまり他人の人生の反映を追いかけることがつまらなく感じられた。自分が生きたいという気持ちが強すぎたのだ。
・・・(第1部・29章、p253)


ここでアンナが手に取っているのはフローベールの『ボヴァリー夫人』、1857年出版のフランス文学の名作、地方の医師と結婚した女性エンマが退屈な新婚生活の中で刺激を求め、情事にふけり借金を重ね、絶望して人生が破滅し自殺するストーリー。当時ベストセラーとなった悲劇をアンナの手に取らせるも、彼女は読み終えることができなかった、そのこと自体が、彼女がその後引きずり込まれてゆく不幸な運命を暗示しているかのよう。もし最後まで読み切っていれば、心の中でエンマとの対話を重ねることで他者の生について考える時間を取ることができていれば、エンマの二の舞は避けようという気持ちが働いていたかもしれない。一冊の本が人生を変えることがある。『ボヴァリー夫人』は、トルストイがアンナに差し出した、儚い救いの手だったのでは。

他人の人生を追いかけることがつまらないというのは、言いかえれば、読書を通して心の中で他者と対話することに価値を感じないということ。リアルな他者との対話がそれを補えればよいのかもしれませんが。一方自分が生きたい気持ちが強いというのは、自分本位の利己的な思考に偏ってしまいがちで、ここでもそのことを気付かせてくれる他者の存在があってほしいところ。願わくばそういう対話、深く内省させてくれる機会を持たせてくれる他者が身近に複数いれば。親族のオブロンスキーに期待したいところですが、彼も自分本位度が高く役不足。ましてや配偶者のカレーニンは自分の幸福や社会的地位の誇示が最優先、さらに年の差二十歳(*)の夫婦ともなれば、ジェネレーションギャップで感性にも違いが出て、双方が強く意識して共に利他的な心を育む努力を続けないと、心から互いに幸福だと言える状況はとても作れないと思います。
しいて言えば、他者を思いやる心を強く持つリョービンとの交友関係が築かれ、アンナの中でリョービンに対する分人が、他の分人にいい影響を及ぼしていたら。。
(*) : 出所『ナボコフのロシア文学講義 下』(河出書房新社、p22)

2.    優しさと許容

「これグリーシャなの?    あらまあ、なんて大きくなったのかしら!」そう言ってアンナはドリーから目を離さぬまま子供にキスすると、その場に立ち止まって顔を赤らめた。「いいえ、ここにいさせて」
・・・(第1部・19章、p171)


さあさあ、さっきと同じように座りましょうね」もとの場所に腰を下ろしながらアンナは言った。するとまたもやグリーシャ坊やが彼女の腕の下に首をもぐりこませ、頭をドレスにもたれかからせて、誇らしくまた嬉しそうに顔を輝かせた。
(第1部・20章、p184)


この19章から20章にかけての、アンナがドリーにオブロンスキーの浮気を許すよう説得するシーン、グリーシャとターニャがじゃれて絡み合い、キティも登場する、とても賑やかで微笑ましく滑らかに流れていく会話、アンナの優しい母性に満ち溢れたシーンでとても好きです。大人の諍いをなだめながら、愛情たっぷりに子供たちの相手をするアンナの分人には、生き生きとした人生への肯定感さえ感じます。

「そうね、断言はできないけど・・・いいえ、できるわ」アンナはしばし考えてからそう答えると、さらに頭の中で状況を整理し、心の秤にかけた後に付け加えた。「いいえ、できる、できるわ、できるのよ。ええ、わたしなら許すでしょう。しかも、まるで最初から何もなかったかのように、すっかり許してやるでしょうね」
(第1部・19章、p181)


アンナは(オブロンスキーの浮気を)わたしなら許すと言っていますが、若干苦し気な表現、最終的に自分はブロンスキーの浮気を許せず自ら命を絶ったことを考えると。許すとアンナに言わせたのは、周りにいた子供たちかも。この子たちを守ろうという愛情度が勝っていたから。愛する子供たちがアンナの周りにも最後までいたなら、やはり違った人生になっていただろうと考えてしまいます。「許す」か「許さない」かの判断は、限りある人生の中で、実はその当事者の運命を変えるかもしれないほどの、とても大きな契機になり得るのだと実感します。

3.     分人バランスの崩壊

ただ、わたしの中にはもう一人の女がいるの。わたしその女が怖い。
その女があの人を愛して、それでわたしはあなたを憎もうとしたんだけれど、やっぱり前の自分が忘れられなかったの。その女はわたしじゃないわ。今の私が本当のわたし、完全なわたしよ。(第4部・17章、p445)


わたしがいちばんいやなのは、自分が何かを試そうとしているんだって思われることなの。わたしは何も試したくなんかない、ただ生きたいだけなのよ。自分以外の誰にも迷惑をかけずに。わたしにもそれくらいの権利はあるでしょう、ねえ?
(第6部・18章、p452)


そして彼女は、アンナが目を細めるのは、話題が人生の大事な秘密に触れたときだということに思い当たった。「まるで彼女は、自分の人生に対して目を細めて、全部が見えないようにしているみたいだわ」とドリーは思った。(第6部・21章、p482)


徐々にアンナの中の分人バランスが崩れていく過程、人はなぜそのような状況に陥ってしまうのかという問いは、この小説の後半の軸ともなるメインテーマだと思います。

ヴロンスキーの子を産む苦しみの中でカレーニンに打ち明ける言葉、"その女はわたしじゃないわ。今の私が本当のわたし、完全なわたしよ" というのは、精神的に動揺している状況とは言え、いや、アンナ、それはおかしいよ、そうじゃないんだよと、その場面に入って行って声をかけたくなります。単独の分人が完全な一つの個人を成しているというのは、とても安易で短絡的で、支え合う他の分人が自分の中に存在しなければ、ある一つの感情が暴走してしまう。その現場で起きたことは、単独の分人がカレーニンに赦しを請い、カレーニンはそれを許す自分に幸福感を感じて感情移入してしまい、結局「許す」ことで自己納得してしまう。彼のその行為は少し美化された描かれ方になっていますが、そこで本人が気付くのは、自分はこれまで一度も彼女を愛してこなかったのだということ。それはアンナに心から向かい合ってこなかったということであり、逆に言えば、アンナの悲運の萌芽をカレーニンが育み続けてしまったということ。ここにこの悲劇の主因があると思います。

ただカレーニンを少し擁護するなら、19C当時のロシア・ヨーロッパ社会における男性優位の社会的価値観の中で生きる貴族にとっては、自分の幸福が第一、配偶者である女性の幸福は二の次、それが当たり前の風潮だったと想像できます。1789年のフランス革命で人権の意識は芽生えるも、男性優位の社会的価値観は変わらず、ロシアで女性に参政権等の権利が認められるには1917年の革命を待たねばならず。男性優位・女性劣位の価値観が起こす悲劇は同時代の戯曲や小説でも取り上げられており、例えば、イプセン『人形の家』のノラとヘルメル(銀行頭取)、モーパッサン『女の一生』のジャンヌとジュリアン(美青年子爵)、フローベール『ボヴァリー夫人』のエンマとシャルル(医師)など。

もしその先にまだ救いの手があったとすれば、ヴロンスキーとの間に生まれた娘・アニーだったかもしれませんが、正式な姓を名乗れない不幸な子供という意識がアンナにはあり、どうしてもセリョージャほどの深い愛を注げない。この子を育てたいという意欲に陰りが見え、一方でアンナの中では一つの分人に偏った状況から抜け出せず、第7部からはもう取返しのつかない状況へ。繰り返されるアンナの目を細める行為は、外に目を向けることを止め、徐々に心の扉を閉ざし、他社の声が心に届かなくなることを示しているかのようです。

「そう、どこまで考えたんだっけ?    ああ、わたしには生きることが苦しみでなくなるような状況を思いつくことはできないということだった。わたしたちはみんな苦しむように作られているのだし、そのことをみんな知っているから、誰もが自分を騙す手段を考えだそうとしているんだ。でも本当のことがわかってしまったらどうしたらいいんだろう?」
・・・
「ここはどこ?  わたしは何をしているの?  なぜ?」
(第7部・31章、p247、252)


でも本当のことがわかってしまったらどうしたらいいんだろう? と考えてアンナが選んだのは逃避。平野さんの『空白を満たしなさい』で徹生の中の分人が選んだ行為。分人の総体としてではなく個人として重大な決断をしてしまったアンナ、そこには上記のカレーニンと同じく、アンナ自身にもその時代に女性として行き続けることの困難さ・社会的閉塞感が強く潜在的に影響を及ぼしていたように思います。考え得る人生の選択肢に限りがある状況ですから。なお、そういう心理的状況に置かれた人に、うまく分人主義のことを伝えられるかどうか。容易ではないが不可能でもないと思います。徹生がそのエッセンスに気づけたように。

ここはどこ?  わたしは何をしているの?  なぜ? と、命を絶とうとするその刹那に現れたアンナは、アンナの中のどの分人だったのか。優しく子供たちと向き合っていたときのアンナか、神に祈りを捧げているときのアンナか、直前に十字をきって子供時代を思い出していることから、ずっと幼少の頃から自分の中で息づいていた素朴な一人の女性としてのアンナだったのか。読者としては、少なくともそう考えられる分人がアンナの中にまだ生きていたことで、何かしら救われるような思いがします。