コロナ騒動以降Apple TV+、Netflix、Amazon Prime などのサブクリプションのプログラムを観る時間が増えた。

それらのアメリカ発のオンラインサービスのコンテンツ番組では、LGBTQやジェンダーや人種、差別、経済格差、戦争の歴史など社会的、政治的イシューが正面から取り上げられ、連続ドラマや映画、さらにそれらにまつわる小説や舞台、メイキング映像や、ドキュメンタリーや良質なインタビュー番組などを含めて、見事にエンタテインメントとして調理されている。

それは、かつて発酵術に長けた日本人が有毒な植物さえも食品として余すことなく利用したエピソードを彷彿とさせるように、親の世代が、口にすることさえタブーであった現実をブルドーザーで土を一気に掘り起こすように白日の下に晒し、圧倒的なエンタテインメント力で発酵させ、全く新しい調理として食卓にあげるような光景。

インターネット社会と資本主義経済がタッグを組んだとき、その宗主国・アメリカという国が見せる「エンタテインメント化」の消化スピードと貪欲さに舌を巻く。

日本の地上波テレビや新聞、あるいはリベラル系メディアで、社会学用語として触れるに過ぎなかった「言葉」が、映画や演劇の力で、一瞬にして眼前に立体的にリアルな「ドラマ」として立ちのぼってくる。

現在50歳の僕にとって、この体験は全く新しい学びのツールであり、とても新鮮な世界だ。

僕らの子供たちの世代は、まさにこの圧倒的に新しい価値観のシャワーを浴びながら育っている。

一方で、LGBTQや移民の問題が報道されるたびに、未だに信じられないほど野蛮な発言が、政治家や有識者とされる人物から発せられる日本。

そのたびに、なぜ日本の映画やドラマでは、新しい価値観を「エンタテインメント化」させることができないのだろうか、といつも歯がゆいおもいをしていた。

表面的にトピックスとして、言葉だけをなぞるだけの淡泊な描写に終わるため、せいぜい「お笑い」の材料としてステレオタイプの旧来の価値観を増強させるのが関の山。

せっかく放たれた新しい世界の言葉の矢も、リアルな描写でないため迫力を欠き、「今、そこにある危機」として鑑賞者の内部に新しい視座を生むまでの飛翔力をもたない。

そんな中、5月26日に出版されたばかりの平野啓一郎さんの『本心』を読み終え、彼がそんな日本の現状に対して、最前線で孤軍奮闘されていることを再認識した。

昨夜、新聞連載時の挿絵を担当された菅実花さんと平野啓一郎さんのZOOMを使った2時間越えのオンライン対談イベントに参加させていただいた。

イベント終盤、MacBookの画面越しに平野さんが一般参加者に向けて語られた言葉が、ご本人からのメルマガでも届いていたので、ここに一部抜粋させたいただく。

”僕の小説は、リニアに思想やエピソードを繋いでゆくのではなく(『決壊』は比較的、そういう書き方でした)、近年は、積層的なレイヤー構造のデザインを心がけていますので、深読みすればするほど、読み応えのある層にリーチする一方、トップのレイヤーは、出来るだけシンプルに、物語が流麗なラインを描くことを理想にしています。そして、最終的には、一言で全体の主題を表現できるところまで辿り着けるといいのですが、今回はゲラの最後の見直しで、「最愛の人の他者性」という言葉に辿り着きました。複雑で雑多な要素が絡み合った小説ですが、重要な人間関係のあらゆる場面で、この言葉が意味を持ってくると思います。”

と、ここで語られるように、まずなにより「流麗なライン」で語られる乗り物としての「物語」の乗り心地が最高で、そのドライブ感に酔いしれながら、レイヤー一枚一枚に丹念に描かれた、移民問題、デモ、尊厳死、戦争の記憶、ジェンダー、学歴社会、バリアフリー、経済格差などに読者は、ドップリ浸かることになる。

それは、今の日本で生きる僕らが、日々の営みの喧噪の中で、つい目を逸らしがちな現代の社会的、哲学的命題に、無理強いされることなくいざなわれ、まさにVRのごとく眼前に展開され、対峙する貴重な体験だ。

「最愛の人の他者性」という中心命題は、先日鑑賞した、クロエ・ジャオ監督の映画「ノマドランド」において、死者と生者がアイデンティティーを互いに支え合っている描き方にもオーバーラップさえしてみえた。

同時に「本当に愛している他者であるからこそ、距離を保つ」というストーリーの次元においては、コロナ騒動以降の私たちに突きつけられた宗教的啓示のように今後も繰り返し、思念を想起させるテーゼのようにも思えた。

長い時間を共に過ごした「最愛の人」の心の内部でさえも、全く理解を超えた「他者」が息づいている。

だとしたら、われわれを囲むその他無数の「他者」に対しては、あらゆる可能性を排除せず、できうる限りの敬意を持って接する生物としての責任が発生する。

オンラインイベントで、平野さんが、映画監督テレンス・マリックへの敬愛を吐露されたときは、おもわず画面越しに僕は深くうなずいた。

「シン・レッドライン」も「ツリー・オブ・ライフ」も繰り返し鑑賞し、「名もなき生涯」の鑑賞直後には、興奮のあまり短い文章を書いた僕もマリック偏愛は、共有している。それもただ単純に嬉しかった。

大いなる宇宙と生命誕生の歴史の中で生物としての人間という生物種をみつめたとき、そこには実は「差異」ではなく、無限に儚い運命を共有して宇宙空間に漂う「一個体」としての人間の姿しか見えなくなる。

小説『本心』も『マチネの終わりに』のように映画化され、実際に平野啓一郎「文学の力」で、世界が変わりゆく様を、VRではなく、リアルに体験することを今から大いに期待したい。

なお、余談だが、この小説のラストは、日本人の主人公が、あるミャンマー人の移民女性に日本語学校NPOへの入学を世話をするシーンで終わるのだが、そのシーンを読み終たとき、偶然、コロナのため帰国できず、スウェーデンで移民プログラムのスウェーデン語の無償プログラムを受けて暮らす一人娘から、ドライブを楽しんでいる画像が送られてきた。

最近、彼女は、スウェーデン政府の移民プログラムにのっとった就労斡旋によって、インターンシップ先へ照会してもらった際も、面接前に地元の労働ユニオンから、労働者としてあなたのすべての権利がスウェーデン人と同等に正当に守られるので、なにか疑問があればいつでも気軽に相談してきてほしいと直接連絡があったそうだ。

2021年、北欧の国が、すでにVRでなく、リアルに「最愛の人の他者性」を私たち家族に示してくれた体験を紹介して、闘士・平野啓一郎さんへの全面的賛同の表明としたい。